境内散策

大野川沿いの桜並木

春、桜が満開になりますと、そのボリューム、美しさで、お参りされる方々、行きかう人々の目を楽しませてくれます。







西国三十三観音霊場石仏群

西国三十三観音霊場を曼荼羅のように見立て、外側に12天を配置したもので国内唯一の石仏群。石柱に「願主一心寛政七年(1795)乙卯」とあり、とりわけ12天の石仏は珍しい。





三十三観音霊場石仏群の配置について

1.石燈籠の日輪と月輪の配置が逆になっている。
本来であれば向かって右が日輪で左が月輪になるはずであるが、この石仏群前の石燈籠は向かって右が月輪(ウサギ)で左が日輪(三本足の金烏)となっている。



仏様は南に向いていると観念して座っておられるので、仏様に向かって右側(東側)から朝日が昇り、左側(西側)に月が沈む形が本来の配置だと考える。



2、三十三観音四方に配された四天王像の内、東の持国天と南の増長天の配置が逆になっている。



上の写真の正面観音像向かって右前に増長天(南)、左前に持国天(東)、左奥に広目天(西)、 右奥に多聞天(北)が配されている。普通は東南西北と配置するのを考えると、今のこの配置は東と南が入れ替わっていることになる。現在の増長天像には略されることが多いが、増長天も刀剣を持物とすることがある。恐らくこの点を認識せずに持国天と増長天の配置を間違えたのであろう。



3、四天王像の向きの正否。



上写真のように四天王像は全て外向き(向かって左奥の広目天像の裏には写真のように不動明王が彫ってある)である。これについて一つの疑問が生じる。向かって右奥の多聞天像である。

左の写真は多聞天像であるが、右手に多宝塔を持ち左手に三叉戟を持つ。
普通多聞天や毘沙門天は右手に三叉戟、左手に多宝塔を持つ。


左の写真に写る左側が毘沙門天(多聞天)である。これは同じ場所に有る十二天像の中の毘沙門天像である。先の写真と持ち物が反対になっているのがわかる。
奈良法隆寺や大阪四天王寺の四天王像の内多聞天像は、右手に多宝塔を持ち左手に三叉戟を持っているので先の写真の多聞天像と同じである。
法隆寺や四天王寺の四天王像は、本尊と同じ方向に向いて立っている。同じ方向を向く事によって多聞天像の右手側の本尊の方に多聞天の重要な持ち物である多宝塔を向ける事が出来る。成尊僧都の言葉に「其の尊の要の物を本尊に向ける」と有る所から、現在外向きに配置してある多聞天像は裏返して正面に向けるべきと考える。




4、不動明王の存在、広目天と表裏
向かって左奥の広目天像の裏には写真のように不動明王が彫ってある。天台宗寺院では本尊の両脇に不動尊と毘沙門天を配する三尊形式が多く存在する。三十三観音霊場石仏群を建立した一心近住は天台宗の僧侶であるので、不動尊と毘沙門天(多門天)を本尊様の両脇に据えたのではないか。

左の写真を見れば光背の炎が右になびいている。
先の成尊僧都の言葉に「不動尊の炎のなびいている方に本尊を向ける」と有るので、この配置は正しいことになる。


酒井時代初頭(1751~1753頃)の『姫路城下諸町絵図』を見ると、一心が住職を勤めた長徳寺は現在不動院の本堂が建っている建物より北側が寺領と見えるので、最初三十三観音霊場石仏群(1795年建立)は、今の不動院北側の墓地か本堂前の境内に最初建立されたのではないかと考えられる。以上の配置の誤りは明治14、15年に男山が崩落した時に三十三観音霊場石仏群が被害に遭い、現在地に移設された際に生じたものと考えられる。



東山焼男山窯跡・池田弥七君之碑

江戸時代に姫路藩の藩窯で製造された磁器を東山焼といい、藩政改革で著名な河合寸翁が振興した。文政5年(1822)姫路藩は興禅寺山(市内東山)山麓の藩窯で製造を始めたが、天保2年(1831)頃、この地に男山窯を築いて京焼き風の藩用品として上手の品が製造された。藩窯としての男山窯は安政年間(1854~60)に終焉したとされるが、民窯として男山窯は存続し、陶磁器の製造が続けられた。白鷺製や明治9年以後の永世舎の製造が知られるが、明治15~6年頃男山窯は終焉を迎えたという。藩窯東山焼の製造にあたった池田弥七は藩窯終焉の後独立して弥七焜炉の製作で好評を博したという。墓は窯跡の北側にある。
平成16年12月 姫路市教育委員会

飾磨郡史によると明治14、15年に男山が崩落し本堂が全壊し明治21年に再建している。山本和人氏の研究によれば永世舎の廃窯が明治15、16年とされるので、この男山の崩落により被害を被ったことが廃窯に至る一因となった可能性もある。その後、永世舎の登り窯の跡地に三十三観音霊場石仏群を移設したと考えられるのだが、この三十三観音霊場石仏群の配置に誤りがある。恐らく、三十三観音霊場石仏群も北側の墓地あるいは本堂前の境内で男山崩落の被害に遭い、登り窯の跡地への移設に際して配置を間違ったものと推測される。配置の誤りについては三十三観音霊場石仏群の項参照。

 

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池田弥七墓

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左の写真は現在の窯跡。右の写真は鳥取藩御用窯であった因久山焼(鳥取県八頭郡八頭町久能寺649)の登り窯。恐らく当地にもこのような登り窯が存在したものと考えられる。


愛宕山大権現   詳しくはこちら

愛宕山大権現


愛宕山大権現


愛宕山大権現からのぞむ姫路城

愛宕山大権現から望む姫路城。
ダイナミックに横へ広がる姫路城を実感できる眺望は姫路随一である。
また、三つの小天守と大天守を合わせて観られるのはこの角度だけである。

姫路城


姫路城


姫路城からのぞむ不動院

写真右端、大野川と船場川の交わる場所に不動院がある。



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