池田輝政公

池田輝政公と不動院・愛宕山大権現


鳥取県立美術館蔵 池田輝政公肖像画
鳥取県立美術館蔵 池田輝政公肖像画

池田輝政公は『名将言行録』等に「器度宏大、為人沈毅剛直、寡欲にして大略あり、夙に天下に志を有す」とされている。かねて輝政の大志を知っていた徳川家康も輝政の薨去にあたり、「死んだか、不便なことをした。惣別愛宕などせせって、天下は取れるものぢやない(死んだか、可哀そうなことをした。大体愛宕などにうつつをぬかして、天下はとれるものではない)」と述べたことが永井直清(1591-1671)の『永日記』に記されている。また、元禄十六年(1703)の『遺老物語(おきなものがたり)』には。「永禄元年(1558)春、尾州楽田の城主その城中に高二間余に壇をつき、其上に二階の矢倉をたて八幡宮、愛宕権現を祭りて敵を防ぎたるにより、諸方にも聞き及びて、之れをつくり信長にいたりて甚大になりし事、江州安土の殿守其濫觴と云々と見ゆ」とあるように、尾張楽田(がくでん)城の殿守(天守の意)には、八幡大菩薩、愛宕山権現を勧請している。また、同書に諸国の城でもこの殿守の図を写させ、これを模倣して築いていたとの記録がある。このように織田家の諸将と愛宕山大権現との関わりは深い。
池田家の始祖池田恒利は滝川貞勝の息子とされ尾張の織田信秀に仕え、その妻・養徳院が織田信長の乳母となっている。その子の恒興は、信長の下で戦功を立て、信長の死後は羽柴秀吉に仕え美濃国大垣城主十三万石を領した。恒興とその嫡男の元助は小牧・長久手の戦いで豊臣方につき戦死する。しかし、恒興の次男輝政は逆に徳川家康に接近して娘婿となり、以降池田家は外様でありながら徳川家一門に準ずる扱いを受けるなど破格の待遇を受けるようになる。関ヶ原の戦いでも徳川方につき戦功により播磨五十二万石を与えられ姫路藩主となる。不動院に関連する姫路池田家の歴史を振り返ると以下のようになる

慶長五年(1600)池田輝政公姫路に入封。

慶長六年(1601)城の改修を始める。

慶長十二年(1607)山野井男山(現在不動院のある場所)に菩提寺として龍峯寺を建立

慶長十四年(1609)姫路城を完成。
・この年の八月、城域内惣社にあった不動院の第六世宥誉(雄誉)が山城国愛宕郡白雲山長徳寺より愛宕山大権現を勧請。池田輝政公が熱心な愛宕信者であったことを考えると、城の完成にあたって信仰する愛宕山大権現を城域内に勧請させた可能性もある。

慶長十八年(1613)池田輝政公薨去 遺骨を龍峯寺に埋葬し名を国清寺と改める。

元和二年(1616)池田利隆公薨去 山野井国清寺に埋葬
・愛宕山大権現を勧請した不動院宥誉もこの年に遷化。不動院境内に宝篋印塔あり。

元和三年(1617)池田光政公鳥取へ転封
・愛宕山大権現が長徳寺へ移る(現在鎮座の場所)

元和四年(1617)本多忠政公国清寺を船場本徳寺へ移築

明治三年(1870)神仏分離のため不動院が惣社(播磨国総社)からこの地に移り今日に至っている。下は『姫路城史』上巻に収録された不動院の写真。


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池田輝政公、池田利隆公の墓について

池田輝政公の墓について『姫路城史』の著者橋本政次氏は私案として以下のように述べている。


輝政の墓はその後幾何もなく京都妙心寺塔頭護國院に移し、更に備前敦土山に改葬し、既に龍峯寺址にも、中市之郷村にも何等遺跡の徴すべきものはないが、今坂田町正法寺に輝政の位牌並五輪塔を存し、別に増位山にも五輪塔のあるを昭和二十四年十月二十三日著者登山の際偶然発見した。正法寺五輪塔は、臺石正面中央に「泰叟玄高居士」左右に「慶長十八年正月廿四日」と刻んである。この五輪塔が何時何處から同寺に移されたか詳でないが、最初から同寺にあったものではない。増位山五輪塔は本堂西方山中にあって、臺石正面中央に「池田輝政之墓」左右に「慶長十八癸丑歳正月二十四日」と刻んである。かかる山中にあるのであるから、恐らく最初から此處に建てたものであろうと思われるが、しかし同山に輝政の墓のあることは何等記録の徴すべきものなく、或は是亦他から移したものであるかも知れない。強いて考ふれば、或はこの正法寺並増位山の五輪塔は、もと何れか一方は山野井國清寺、又一方は中市之郷村にあったものかも知れない。若しさうであれば、正法寺五輪塔の法名を刻み、位牌をも傳ふるに見て、これ恐らく山野井國清寺のもので、護國院に改葬の際遺骨のみ移し、五輪塔並に位牌を正法寺に移し、又増位山五輪塔はその俗名を刻めるにより、これ中市之郷村のもので、明治維新後土地開発に方り、これを増位山に移したものではあるまいか。


そこで、京都妙心寺、姫路市内正法寺、増位山に出向いた。妙心寺で墓の所在を確認したが現存しないとのことであった。正法寺では位牌と墓の確認をさせて頂いた。


位牌の表 國清院殿正三品参議泰叟玄高大居士
裏 慶長十八癸丑年      三箇國大守
  正月二十四日      池田少将輝政公
             四十九戈逝去


墓碑文については橋本氏記述の通り。比較すると墓に「國清院殿正三品参議」の九文字が刻まれていない。菩提寺である國清寺にあったものとするには不自然か。また、正法寺ご住職によるとこの墓は境内にある他の墓とともに市之郷村から移転してきたとの寺伝を持つ。


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<正法寺の五輪塔>


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<増位山中の五輪塔>


増位山中の五輪塔についても確認したが、俗名を刻むところから國清寺にあったものとは考えられない。正法寺、増位山の五輪塔は墓ではなく供養塔として後世の人が建立したものとするのが自然である。

さらに、平成26年3月、高野山にある池田輝政公の供養塔を木下浩良先生の協力を得て確認する事ができた。この供養塔は昭和52年以来所在が分からなくなっていたものである。織田信長公の供養塔に向かって左、筒井順慶公の供養塔の前で崩れかけていた。地輪の中央には「国清院殿正三品参儀泰叟玄高大居士」とあり、右に命日「慶長十八年正月廿五日」とある。他の供養塔に刻まれた命日とは異なる。左には「為羽柴三左エ門御内方建立」とあるので督姫により建立されたことがわかる。督姫が慶長二十年に没しているから、この供養塔は慶長十八年(1613)から慶長二十年(1615)の間に建立されたことになる。恐らく現存する池田輝政公の供養塔としては最も古いものであろう。中世の墓は造立の年を刻むのが基本で、命日を刻むのは近世のこととされるが、慶長年間ともなると近世の習慣によっているのがわかる。



<高野山の五輪塔>






さて、輝政公と利隆公の墓石についてさらに調査を進めたところ、岡山藩士斉藤一興(文政六年(1823)亡)の編纂した『池田家履歴略記巻十一』に、池田光政公が京都妙心寺塔頭護國院にあった輝政公と利隆公の墓石を寛文七年(1667)に改葬した時の家臣への沙汰書の覚書が残されていることがわかった。そこには以下の記述がある。


一、御骨之壺は箱に入御名それぞれに印可申其箱を半櫃入候て守来可申但 輝政様武州
    様御骨は一つ櫃へ入其外は不残又壱つ櫃へ入可申事
一、土葬之分は桶共に箱に入可申前方に板こしらへを申付置ほりかけ候てかつこう見
    分箱さうせ可申当分かりの箱に候間不取敢釘付にいたし桶共に損し不申様に入可
    申候若箱不可然候はば是又桶にても右之趣に見合可申付候但上は目に立不申候様
    莚包にいたし引可申候事
一、伏見迠路次中は半櫃を守来候御供之者常之旅立の躰にてひそに可仕候事
一、御石塔卵塔不残引取申候御石塔は上を莚にて包認卵塔は崩して車にて伏見へ引可
    申事


「御骨之壺」とあるところから輝政公、利隆公(武州様)共に火葬がなされ骨が壺に納められていたことが判る。墓については御石塔卵塔とある。輝政公の墓を御石塔(五輪塔を指すものか)、利隆公の墓を卵塔としたものか。「土葬之分」とあるのは、護國院が池田家代々の菩提寺であったので、輝政公、利隆公以外にも埋葬されていた方があったと考えられる。海路備前に着いてからの様子は以下の通りである。


右の仰かふむり美作十郎右衛門は都に赴ける此年十月二十七日烈公みつから御墓地御
見分として岡山を発し給ひ片上に止宿し給ひ同二十八日木谷村の山を見給ひ同日の晩
吉田村に宿し給ひ同二十九日脇谷村の山(今の和意谷をいう)見分し給ひ此山然るへき
旨仰ありて此夜和気村に宿り給ひ十一月朔日岡山に帰らせ給ふ此度始終津田重次郎御
道案内をそ仕候へかくて御櫃共十二月廿日京都を発しけるよし聞き給へは御むかひと
して池田主税之助殿津田重次郎其外数輩片上へ出つへき旨仰あり同二十七日尊骸片上
に着岸し給ひ同二十八日八木山の御宮へ仮におさめ給ふ今年正月六日津田重次郎を召
れ此度和意谷敦土山御墓地壙内御墓誌御墓表諸事奉行たるへき旨命ぜられし其後追々
普請あつて二月二十三日閏二月十三日両度に尊骸八木山より和意谷に移され御改葬あり


一旦、八木山に安置の後、和意谷へ改葬されたのが判るものの、現在和意谷に「御石塔」「卵塔」は残されていない。これらの墓について明和八年(1771)辻時成の編纂した『当家系図傳一』「播磨宰相輝政傳十」には以下の記述がある。

男山龍峯寺ニ葬ル播州一郷渡リヨリ西方ニテ火葬シ石碑ハ男山ニ建備前ニ移セシ時海ニ沈ムト云


以上の史料を見る限り、最初男山に埋葬された御遺骨は最終的に和意谷に改葬されたと考えて差し支えない。墓は海中に沈められたことになる。


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