縁 起

寺伝によると神亀五年(728)に、徳道上人により、大和の長谷寺を模して姫山の地に創建され長谷寺と号し、元亀三年(1572)黒田官兵衛の父である小寺職隆(こでらもとたか)が姫路城域拡張のため、惣社(播磨國総社)地内に移し不動院と改めたとされる。『城北社寺明細帳』にも、
創建神亀五戌辰年開基徳道、大和國長谷寺ヲ模シ當國同郡姫山ニ寺宇ヲ創建シ姫路山長谷寺ト稱ス、元亀三壬申年小寺職隆姫山営陣之砌、同城内惣社ノ地ニ移転し、明治三庚午年九月舊藩主ノ命ニ依テ當地ニ移転ス
とある。それまで砦や館の如き小規模なものであった赤松氏時代の城が、小寺職隆によって中世の城郭へと変貌した時期、長谷寺が姫山から惣社地内へと移転したことになる。姫山における長谷寺の位置は不明だが、石積みが城郭のものと異なるとの理由から、現在お菊井戸のある場所と考える研究者もある。(官兵衛ヒストリア参照
寛延二年(1749)の『村翁夜話集』には以下の記述あり。「明王院開基ハ永禄年中ニ小寺美濃守殿ノ時妙音房看慶ト云持律殊勝ノ僧故美濃殿崇敬有初テ一宇ヲ建立シ玉フ」また別の箇所に「総社ノ内姫路山長谷寺明王院ハ昔長谷門ノ塔中也ト云 同所不動院モ同之」とあるので、不動院を永禄年間(1558-1570)の建立とする説もあるが、不動院境内に不動院第二葉清尊法印の墓があり寂年を弘治三年三月三日(1557)と刻むので、不動院としての歴史は明王院より古いことになる。ここに言う「不動院モ同之」は明王院と不動院が長谷寺の塔中という由来を共にする意と解釈した方がよい。
続いて惣社移転後の不動院の場所を確認する。天正四年(1576)に芦屋道海が記した『播磨府中めぐり』の叙述を見ながら、嘉永五年(1852)に写したとされる(姫路長谷寺不動院旧蔵)『姫路舊地図』に「長谷寺観音堂三間四面」とあるので、ここが不動院のあった場所と考えられる。ところが、『播磨府中めぐり』には「小野江の清水より三丁斗東をしらいと云、家居三十斗、はんにや寺有。長谷寺も観音也」とあるにもかかわらず、絵図の長谷寺は小野江の清水の東ではなく東南にあたる。また、この絵図とは違う場所を小野江の清水としている史料もある。


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この絵図はいわゆる天正古図と称される絵図の一つで、近世後期の様子が誤ってこの絵図に書き込まれていることがある。例えば、この時代既に失われていた青見川が描かれていたり、姫路東高校付近にあった筈の惣社が現在地に描かれている点が指摘されている。ひとまず、この絵図を信じて『姫路城下町うちまちものがたり』に掲載された旧惣社の推定地を確認すると、天正年間の惣社の位置が現在地より北にあり、先ほどの「小野江の清水より東」という位置関係があてはまる。長谷寺と惣社の位置関係からすると、現在の姫山駐車場あたりに長谷寺があったことになる。兵庫県立歴史博物館の堀田先生によると、小寺時代の姫路城の大手門(正門)は東に設けられたため、城の正面にあたる惣社の社域全体を南に移転させた可能性があるとのこと。これに伴い長谷寺も移転したのであろうか。


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『姫路附近之古地図』は万延元年(1860)姫路藩儒庭山氏が写したもので、この絵図も天正四年(1576)芦屋道海の記した『播磨府中めぐり』と天正六年(1578)芦屋道健が記した『国衙巡行考証』基づいて描かれたものとされる。長谷寺が二か所に見え、西の長谷寺に「今不動院」の書き込みがあるので、東の長谷寺が明王院であろう。
寛延二年(1749)の『村翁夜話集』に慶長十四年八月(1609)に不動院六葉雄誉が愛宕山大権現を勧請した時の免許状が存在するため、慶長十四年(1609)の時点でも不動院と号していたことが確認できる。
寶暦十年(1760)の『播陽事始経歴考』には「惣社堺内不動院建ル霊元院万治三年(1660)」 とある。『姫路考略記』(成立年代不詳)には「不動院ハ萬治三年十八間四方、綿町石橋屋新兵衛大手(年)寄後時被下候而、石橋山不動院寺成」とある。

絵図を確認すると、池田城主時代(1600-1617)の『姫路城下町絵図』に描かれた惣社地内には、西から玉蔵坊、社人衆、惣社、社人衆と有り、不動院の名前は見えず。同時期の『播州姫路城下図』(岡山大学池田家文庫蔵)にも寺、神主、宮、神主とあるのみ。


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第一次榊原城主時代(1649-1667)の『姫路御城廻侍屋鋪新絵図』に描かれた惣社地内には不動院、小笠原屋敷、祢宜、惣社伊和大明神、祢宜と記載有り。


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第二次松平城主時代(1667-1682)の『姫路城下町絵図』に描かれた惣社地内には、不動院、惣社、社家と記載有り(現在の姫路郵便局と惣社の門との間)。



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第二次本多時代(1682-1704)の『播州飾東郡国衙庄姫路図』に描かれた惣社地内には不動院、観音寺(御旅所)、栗戸主膳、宮守左近、黒将内匠、惣社、イチ、神主修理、国生兵部、芝崎勘ヶ由と記載有り。


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第二次本多時代(1682-1704)の元禄八年(1695)写『播州姫路御城図』に描かれた惣社地内には、不動院、観音寺、西本主膳、国生内匠、宮守左近、惣社、市、神主□理、国生兵郎、芝崎勘ヶ由と配置(屋敷には個人名が記されている)。


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酒井忠恭城主時代の宝暦十一年(1761)写『播磨州飾磨郡姫路之図』に不動院、宝蔵寺、神主、惣社伊和社、社人九軒と有り、


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酒井城主時代の寛延二年(1749)~文化十三年(1816)に作成された『姫路侍屋敷図』には不動院、即是堂、神主、惣社、神主とある。


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以上の史料から判断すると、不動院は神亀五年(728)に姫山に長谷寺が創建された時期か、それ以降に長谷寺の塔頭寺院として建立され、元亀三年(1572)に旧惣社地内に移った。その後、惣社は現惣社地へと移転するものの、不動院の移転は時期が遅れ、万治三年(1660)石橋屋からの寄進を受けて玉蔵坊の跡地に十八間四方の寺院を建立したのではなかろうか。

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この絵図はペリー来航の翌年にあたる嘉永七年(1854)の惣社の臨時大祭を描いたもの。絵図左上の部分を拡大すると不動院がわかる。


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昭和二年(1927)の『飾磨郡誌』によると、明治三年(1870)神仏分離のため旧藩主酒井忠邦の命により山野井村長徳寺に合併する(現在地)。しばらくは二寺併立の状態にあったが、明治十年(1877)頃長徳寺を廃し不動院に改め今日に至る。ちなみに酒井時代初頭(1751~1753頃)の『姫路城下諸町絵図』には「長徳寺御除地」(除地とは領主から年貢免除の特権を与えられた土地)とあるので、長徳寺のあった場所に現在の不動院が建っていることになる。


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